お盆には死んだフォロワーが帰ってくるらしい
お盆に実家の仏壇に写る爺さんの写真を見てた。
僕は思った。
「誰なんだこのジジイ。」
このじいさんは僕の祖父らしいが、僕の生まれる前に死んじゃったそうなので何もしらない。故にしらない爺さんの前で僕は手を合わせて、親戚と一緒に坊主のソロライブにつき合わされているのだ。
かつて僕の部屋だったこの仏間で、僕はエロサイトを見るときだけ、仏間にうつるじいちゃんの遺影に見られてる気がしたので伏せてエロサイトを見ていた。
僕にとっては荘厳に祭られてるこのジジイは、エロサイトを見るときに視線が気になるジジイでしかない。誰なんだこのジジイは。僕は何につき合わされているんだ。
「南無阿弥陀仏、ナンマンダブ」
坊主のお経がサビに入った。仏間のお盆バイブスは静かに最高潮に達して
ばあちゃんと母親は故人に思いを忍ばせて少し目に涙を浮かべている。
僕は昔かつて引っかかった30万を請求してくるエロ広告に思いをはせていた。
今は消えたポップアップ広告、googleの検索履歴に表示された「おっぱい」を消す方法を必死にさがしたこと。
パブロフの犬みたいな感じで、死んだじいさんを見るとどうしても昔見たエロサイトが走馬灯のようにかけめぐる。
はたから見て誰も僕がエロサイトのことを考えていると思わないだろう。そういう意味では、僕の勝ちだ。そう思っていた。
死んじゃった人を思いやるには、思い出が必要である。
お盆には死んだご先祖が2ストロークのエンジンをかき鳴らしながら帰ってくるらしいんだけど、
実際ご先祖さまらしい知らないジジイが目の前に現れたところで、何を話せばいいのかわからないし、たぶん、向こう側もそうだろう。
だって今僕の目の前に将来の孫とか現れても実際こまる。
どうしよう。たぶん天気の話とかするかな。そっちじゃ今何が流行ってるんすか?特にない。あ、へぇー。
そういえば、最近はまってることとかあります?ないですか。へぇー。。いやそうですよね。お盆っつっても、もう僕は死んでるし。話すことないですよね。やっぱり空いた時間はうめられないですよね。これもお盆だけに覆水盆に帰らずっつって!! チーン。沈黙を仏壇の鐘の音が切り裂く。お盆からこぼれた死に水がピチョリとたれる音がする。
話が逸れた。
僕は親しい身内の死を経験したことがない。
経験があるのは、ツイッターのフォロワーだけ。
でも別に、悲しいとか暗い話をしたいわけじゃなくて。
ただ、死んじゃった彼は面白かった。
5年ほど前にツイッター経由で知り合った彼と僕は新宿で待ち合わせをした。
よくツイッターにアサヒスーパードライのロング缶とちんちんを比較した画像を載せていて、目の前に「はじめまして」と丁寧に挨拶してくれる彼と初対面なのに、彼のちんちんのサイズを知っているのが面白くて笑っていた。
きっとこれからも初対面でちんちんのサイズを知っている人と丁寧に挨拶しあう事はない。
鬱病、統合失調症とか抱えてるにもかかわらず、会っている時の彼は元気で面白くて
よく、「気合いれれば鬱病は治る」と言っていた。幻聴、幻覚も気合いれれば何とかなるって。
イメージトレーニングのみで身に着けた緊縛が得意で、書道で賞を取るくらいに達筆で、インモラルで過激で、面白かった。
本人も言ってたように、彼はどちらかと言うと悪人だし、たぶん地獄に行ってる。
ドラマやアニメでよくある「いい奴から死んでいく」というセリフを思い出す。
けど、
どちらかといえば、物語のおきない日常ではやっぱり悪人に近い奴から死んでいく。気がする。
10代から20歳に入る少し前の僕は随分とインターネットで、
深夜にskypeで同じようなインターネット達と、何を話すまでもなくずっと会話をしていた。
当時、ほとんど明け方に近いのに多くの人間は通話をやめることなく、ずっと繋いでいた。その理由が、やっと最近わかったのだけど、僕たちはきっとただ寂しかったんだと思う。
加速していくインターネットにはメンヘラや精神に問題のある人間が多かった。
スタンド使いとスタンド使いが惹かれあうように、問題のある人間は問題のある人間たちで惹かれあったんだと思う。
そんな人たちの中でも、彼はやっぱり面白かった。
あまりメンヘラさんたちとはかかわらなかったけど、面白い彼が好きで東京に来ると彼と遊んだ。
彼は辛い、だなんて僕の前で言わなかった。全部が全部ストロングスタイルだった。
当時高校生だった僕が彼にサイゼリアを奢った時、彼は店の粉チーズをすべてかけて平らげた。カロリーの摂取。ストロングで合理的だった。
これが交通費無敵のカード!と僕に障害者手帳を見せてくれた。後にもきっと障害者手帳で笑ったのはあれが最後だと思う。
何故か別の人に、プリパラという女児向けのゲーム筐体をプレイしているのを2時間後ろで僕が見守る、という苦行を強いられているときに彼に電話をかけると彼はすぐさま助けにきてくれて、僕はそそくさと原宿のプリパラショップから高円寺の水タバコ屋に着地した。
彼は笑いながら、男性と性行為した経験を語ってくれた。僕は笑いのあまり、煙でむせてしまった。
少しアンダーグラウンドで、少し大人びてて、けれどもすごく人間らしかった時間だった。と今でも思う。
「あー、このまま時間が止まればいいのにな」って彼女みたいなことを思ったのを覚えている。
その後、生活が大変だからという話があって何回かお金を貸した。
彼に貸したお金は、必ず少し色をつけて返ってきた。
端からこぼれる彼の生活は、すごく大変そうで、僕だったら、辛すぎるなという経験もいくつかあった。けれども彼は笑っていたし、僕も笑った。
僕にも、彼にもその場で出来ることはただ、笑うことだった。どんな辛さだって、笑ってしまえば緩和されるし、その間は不幸じゃない。
僕にも彼にも、笑うことしかできなかったし、それを望んでいた。気がする。
その後、人づてに彼が自殺した話を聞いた。
インターネットで出会った彼と、インターネット経由でずっとお別れになった。
「え?嘘だろ?」と思った。ラインに何度かけても返事がない。数日、数ヶ月、まってもずっと既読がつかなかった。今でも。
僕は少しだけ泣いた。ワンワン泣くでもなく、少しだけ泣いた。
一度だけ、少し重たそうに辛そうに「死にたい」という彼に何て言えばいいのかわからなかった。たぶん、僕だったら死んでしまっているくらいに辛い。そんな彼に、僕のわがままで、「生きてくれよ」って言っていいのかわからなかった。
だから、「お前が死んだら殺すからな」って、笑って言った。
その言葉は今じゃもちろん嘘になってしまったけど。
それから随分と時間が経って、僕はインターネットから離れた。健全になった。
たぶん、やっと「普通」になる事が、近づく事ができたんだと思う。
もう連絡を取る知り合いが精神病患者だらけ、なんて事もなくて
大学を留年して、パチンコに通う奴が当たり前で、大学を留年することが普通でもなくなって、ニートが殆どいなくなって、
やっと普通になれて、社会人をやっている。
社会の人たちは、本当にきちんと「社会」で、表面上だけであれなんであれ「まともな社会人」だった。
みんながみんな働きたくないと思ってる。
なのに、今日も当然の顔をして電車は走ってる。
そんな事が当たり前に起きている事に時々恐怖を覚える。
普通、と異常の線引きってなんだろう。と朝電車に乗るときによく考える。
ホームの内側の線、踏み切りの線、この線を一歩越えられるかどうか、
が、まともか異常か、の違い。なのかなーとか。
だとしたら、やっぱり社会の人々はまともで、本当に時々この隙間に吸い込まれそうになる自分は異常なんだろうか、とか、でも本当はみんなそう思ってるのかもしれない、とか、そんなことを思って
「人それぞれだよねー」ってことばでグラスをぶつけて乾杯をする。
たぶん、良い事だと思う。
暇じゃなくて仕事がある事が
忙しくて、ツイッターやブログを書く暇がない事や
やりたくもない資格の勉強をしていることが、いいことなんだと思う。
けど、
ときどき、恐ろしくなる。
当たり前に自己啓発をする人たちが
当たり前に、成長する人が
当たり前に、論理的で正しい言葉に救われる人が
当たり前に、仕事帰りの一杯で救われる人が
自分が、ときどきすごく怖くなる。
そんなときに、ふとフォロー欄を見ると、死んでるのに生きている彼のツイッターがある。
ほかにも、死んでしまった人がいて、そう思うと昔よりも
やっぱり僕は正しくなれたんだと思う。
坊主のライブがコーラスに入った。もうすぐライブも終わる。
お盆に、死んだフォロワーも帰ってくるのかなーなんて思った。
死んだ爺さんのことを考えずに、死んだインターネットの人間の事を考えるのだから
随分罰当たりだな。と思った。
死んだ人が僕たちにうじうじ言われたり、美化されるのは死んだ奴もたぶん嫌だろう。
僕だって僕が死んだら、2.3日は凹みすらしても、後はどうでもいいだろうな、と思う。「まーだコイツ悲しんでんのかよww」って笑うだろうな。
だから
ときどき、これからもホントたまーに
死んだ人の事をほんのちょっとだけ思い出そうと思う。
せめて死人が帰ってくる、お盆くらいは。
坊主の咳払いと共に、ライブは静かに終わった。
ライブの後、坊主に出されたおいしい和菓子の余りを食べている最中には
もうすっかりと、僕はいろんな事を忘れて
正常に戻っていたのだった。