僕がおしっこを漏らしても電車は走っている
おしっこをもらした。
秋晴れの昼下がり。子供達が笑顔で遊び主婦達は井戸端会議に華を咲かせている。
そんな秋の日常の中で、にこやかな顔をしながら下半身をぬらして闊歩している男がいるのならそれは僕だ。
おしっこをもらした。
排尿を理解するには、泌尿器系の全体像を確認しておく必要がある。泌尿器系は尿を生成する腎臓、少量を貯蔵する腎盤、輸送する尿管、大量に貯蔵する膀胱、排尿時にのみ用いられる尿道からなる。膀胱と尿道以外は左右に合計2組備わっている。
大脳皮質感覚野では伸展受容器からの信号を受け取り、脳幹に位置する排尿中枢と協力して排尿を制御している。排尿中枢が興奮することにより、不随意運動と随意運動が協調し排尿にいたる。
わけだが、それはどうでもよく、サクッとおしっこを漏らした。
22歳にもなって、おしっこを漏らすと思わなかった。
昼下がりに車を運転していると下腹部あたりにズドゴォン!っと突然の尿意が襲ってきた。
いや、すごい突然だ。びっくりした。本来「おしっこ漏れそう」というのは段階的な感じだ。
普段の尿意が尿意なら事前にメールを送り、「何日にお尋ねしてよろしいでしょうか?」とたずね、「ピンポーン。尿意でーす。いらっしゃいますかー?後でまた来ますんでー!準備お願いしまーす!」だ。
けれど、その尿意は突然僕の膀胱をぶっとい丸太でぶったたくような衝撃を与え、「おるかーー!!おるなら入るで~!!」とノックしてきた。すさまじい。突然の来客だった。
そんな突然の来賓に「お引取り願います」と何度心の中で唱えたのかわからない。
帰ってくれ。頼むから帰ってくれ。
いや、っていうか。要するにめっちゃおしっこがしたい。マジやばい。出るねん。出るねんてこれ。ホンマに。もれそう。小鹿のように足をぷるぷるさせた。
脳のシナプスがバチバチと焼ける感覚がある。脳をフル回転させて、おしっこを我慢する方法を考えた。
そうだ。まず光速で膀胱を振動させればブラックホールを生み出し、重力と一緒に時間を飲み込み、過去に戻れる可能性がある。ジョンタイターのカーブラックホール理論だ。これで尿意を過去に戻せる可能性かある。
光速で膀胱を振動させるにはまずどうしたらいいだろう。
一日1万回感謝の膀胱振動を繰り返せば、いずれは音を置き去りにし、光速を超えられるかもしれない。なるほど、これには少なくともおしっこをもらすまでに間に合いそうにない。まずは手始めに感謝の正拳突きからんあああ!!漏れる!!!!
どれだけ心の中で尿意を否定してもお引取りは願えない。
尿意。凄まじい尿意だ。平和な日常に突然とスペクタルなバトルが幕を開けた。
ラブストーリは突然に。勿論尿意だって突然だ。日常にはいつだって危険が潜んでいる。ニョーイ、ドン。脳内に走馬灯が流れる。
最後におしっこを漏らしたのは確か小学6年生のときだ。
小学生特有の「学校でおしっこするのはダサい」という価値観のおかげで学校でトイレを使う事ができず、我慢に我慢を重ねていたが友達の「ちんちんぶらぶら体操」とかいう謎の踊りがツボに入ってしまい、凄まじく爆笑してしまい腹筋が緩みおしっこを漏らしにもらした。
笑いながらおしっこを振りまくその姿は「狂気」の一言に堅くなかった。
なるほど、あの頃なら許されたが今なら確実に刑務所行きだ。刑務所ならトイレはあるから大丈夫だろうか。
口からよだれをだらだらたらしながら思い出した。下半身からは「尿なのかわからない」何かがちょっと出た。出てない。わからない。もうなんでもいい。
やばい。本格的なやつだ。
必死に周りを見渡す。コンビニ、コンビニはないだろうか。いや、周りは田んぼばかりだ。立ちションならいけるかもしれない。
しかし、その突然の出会いに僕は「ワクワク」している自分を発見した。
突然のスパイス。いつだってサスペンスは突然だ。走馬灯が駆け巡るような経験はここ数年でしたことがなかった。これはー、試されている。そう感じた。
いつだってトイレに囲まれてきた。そこにいる便座はいつだって僕を暖かく迎えてくれた。失敗したって落ち込んだってそんなときに自分を暖かく迎えてくれたのはいつだって便座だけだった。
便座はない。コンビニもない。「立ちション」という選択肢はある。
このドラマとサスペンスに安易に「立ちション」という選択肢を選んでいいのだろうか?
たとえばここがコンクリートジャングルである、東京。はたまた銃弾が飛び交う戦地の激戦区だったとする。そんな時に「立ちション」という選択肢が選べるだろうか?選べない。銃弾で頭を貫かれるだろう。「立ちションが出来る」という環境に甘えてはいけない。
「本当の危機にこそ自分の人間性が試される。」
これは、試練だ。そう思った。
脳を高速回転させ、自宅までの距離を計算する。
およそ10km。時間にして20分ちょっと。鍵を開け、家に入り靴を脱ぎ、居間に腰かけ、今日一日のタスクを振り返り、メッカの方向に祈りをささげ、丁寧に熱いチャイを入れて暖炉にもう一度ゆったりと腰かけ、読みかけの本のしおりをやさしく撫で、もう一度メッカに礼拝をささげる。これで所要時間はおよそ50分。
大丈夫だ。間に合いそうだ。失禁までは見積もって突然の尿意でも、冷静に計算すればなんとかなる。漏れるまであと、10分ちょっとと言ったところだ。
あ、間に合わない。無理だ。
しかし不可能を不可能と思わない。肉体の限界は精神で超えられる。突然のサスペンスに興奮していた。「死んでももらさない」この試練を超えたときにきっと得るものがある。そう確信していた。
サスペンスは突然だ。そして、その終わりも突然だ。
車を運転しながら聞いていた。オードリーのオールナイト日本から飛び出た「オフサイドの意味を知らないヤリマン」という言葉がオフサイドした。ツボに入って笑って腹筋が緩んだ。
「あ」
ダムにこぶし大の穴が開くと、そこから徐々に水が漏れ、一気に決壊するらしい。
目の前は赤信号だった。隣には軽トラにのったおじさんがボケっとしていた。
「僕は今おしっこを漏らしている最中なんだが、この人はなぜボケっとしていられるのか」
そう思った。おじいさんは普通に目の前を見ている。他人に関心がない。なんて非情なんだろう。高齢化社会の弊害だろうか。
止まらない。一度穴が開いたダムは水を全て吐き出すまで止まらない。
おじいさんは隣の男がおしっこを漏らしてるときっとこの生涯で気づかないだろう。そういう点では、僕の勝ちだ。
そんな「おしっこを漏らす」という無常なときの流れに身を流せながら、口からは一言が漏れ出した。
「うん。なるほどね…。」
何がなるほどなんだろうか。しかし、変に納得している自分がいた。
「ほほぅ、おしっこをもらすってこういう事か、なるほどね~やるじゃんか」と。
もらしながらも妙に冷静だった。「僕に漏らさせるなんて、なかなかやるじゃん」とまるで後輩に対する変に気取った先輩のような、謎の感覚を覚えた。
お前は漏らさせたつもりかもしれないけど、僕からしたら「あえて」みたいなところあるからな?そういう防衛反応かもしれない。なるほど。やるじゃん。こいつ。
ツイッターを開いて、とりあえず一言だけ残した
おしっこもらしたなう。
— ブル高 (@tiojobtzp) 2016年10月24日
「おしっこもらしたなう。」
この歴史的瞬間を、人類全体に共有せずにはいられない。彼らは「おしっこをもらす」という事を知らない。無知だ。おそらく現在同様にもらしている奴はいないだろう。すなわち僕は「おしっこを漏らすという事」に対して圧倒的に知見がある。その事実を知らしめなければならない。世界に。そしてアカシックレコードに刻むのだ。
タイムラインは言葉で埋め尽くされている。
「今の彼氏はセックスが一番上手いから、いらいらしたり喧嘩しないけど、彼氏との関係におけるセックスの重要性って本当にあなどれない。」
なるほど。
なるほどね、いいじゃん。男女の愛称にはセックスが大事。けど、「おしっこを漏らす」という事についてこいつは何も知らない。そのセックスをしながらでも人はおしっこを漏らす可能性は否定しきれない。そこに、関係性は存在しない。愛を囁きながらおしっこをもらす。仲直りしながらおしっこを漏らす。そのことを検討の対象にいれるべきだ。この人は自分が圧倒的に無知であることを自覚していない。つまり僕の勝ちだ。
「一億円副業で稼いだのが会社にバレてクビになった」
なるほどね。一億円を副業で稼ぎ出す。実にいい。しかし、たとえ一億円稼いだところで、その一億円を口座にいれようとおしっこは漏らす。フェラーリに乗りながら、六本木のオシャンなBARで愛を囁きながらおしっこをもらす。油田の中でおしっこを漏らす。そんな重要なこともこいつはわかっていない。人はいくらお金があっても尿意から逃れられない。つまり、僕の勝ちだ。
何もわかってない。人々は、リスクヘッジができていない。
あらゆる名言には「おしっこをもらす可能性がある事を示唆するべきだ」
われ思う、故にわれあり。尿意アリ。故に我アリ。
語りえる事には沈黙せざるを得ないがおしっこは漏らす。
海賊王に俺はなる!かもしれないがおしっこは漏らす。
抜けている。あらゆる可能性が抜けている。
いつ、どこで、何があろうと尿意は僕たちの日常に影を潜めている。
その恐ろしさにー、人々は見てみぬふりをしている。
赤信号が青になる。車は走っていく。アクセルを踏んだ。
電車が走っている。ふと、疑問に思う。
「なぜ、僕がおしっこをもらしているのに世界はいつもどおりなのか?」
僕がおしっこを漏らしても、世界は普通に回っている。
電車は走るし、彼氏のことに女性は悩んでいる。こんなに下半身をびしょぬれにしても、止まらない。世界は止まらないのだ。
僕がおしっこを漏らしても世界はそのまま進むという圧倒的事実を、学んだ。
色んな人がいる。アイドルだっておしっこを漏らすし、ジョンレノンだって、ジャッキーチェンだって、オバマだってもらす。世界の偉人に限りなく尿意は平等だ。
おろかな民衆はそれに気づかない。「自分がおしっこの支配下」にある。という圧倒的な事実に対して、逃げている。
おしっこを漏らしても、電車は走り、ジョニーデップさえ、この「おしっこを漏らす」
というサスペンスからは逃げられない。
そんな圧倒的な事実を、このことから学ぶことができた。このことを、みんなにしってほしい。僕たちは、無力なのだ。政治よりも社会よりも、そのことを知るべきじゃないだろうか。
どうか、この経験が読んだ人の糧になりますように。そう思い。ここで〆たいと思う。僕たちは、支配されている。そのことを、忘れてはならない。そんな戒めをこの場に残しておきたい。
さて、書き終わったことだし濡れたパンツを変えるか。
おしっこを漏らしていても、電車は走るし地球は回る。そしてもちろん文章も書くことができる。
尿意に対して世界は、かくも非情である。